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人間ってそんなに崇高な生き物じゃなくね!?って思えたら、気持ちが少し楽になった件。
テロメア
民衆がものを考えないということは、支配者にとっては実に幸運なことだ。
【アドルフ・ヒトラー(ドイツの政治家)】
もし、若い外見のまま、いつまでも生き続けられるとしたら…
『永遠に生きる人間』は、生物として他よりも優れた存在であると言えるのでしょうか?
私たちの細胞の中にある染色体には、
テロメアと呼ばれる部分があり、これが私たちの寿命を決めていると言われています。
テロメアはほぼすべての生物の染色体に存在し、細胞分裂を繰り返す毎に少しずつすり減って短くなっていきます。
『テロメアが短くなる』ことは即ち『老化が進行する』と考えられているのです。
しかし、世界には『ハダカデバネズミ』『ロブスター』『ベニクラゲ』のように、テロメアの減少をリセットできる生物も存在しています。
いつか、人間は老化を克服してしまうのかもしれません。
でも、不老不死と聞いてもまだ胡散臭い話であることには変わりないので、少し現実的に『人生150年時代』を想像してみましょう。
この世界では、人の平均寿命が150歳まで伸びているので、会社の定年も120歳まで延長されています。
「年下は年上の言うことを聞け!」とかいう面倒な先輩とも、当初よりも50年程長く付き合う羽目になりました。
今日やってきた新入社員は御年85歳の人生の大ベテラン。
このベテランはこれまでブラック企業で厳しい上司の下、毎日12時間、過酷な労働に耐え抜いてきたため、脳の前頭前野が退化し、想像力と思考力が著しく低下してしまっています。
イソップ寓話には『人と馬と牛と犬』という話があります。
❝ある寒い冬の日、寒さに耐えきれなくなった馬が人間のところにやってきて宿を貸してくださいと頼んだ。
人間は、「お前の寿命をいくらか分けてくれるなら貸してやろう」と言った。
馬は喜んで承知した。
次に牛がやってきて、これも同じように寿命と引き換えに宿を貸してやった。
最後に犬がやってきて、犬にも寿命を分けてもらった。
こうして人間は長生きするようになった。
しかし、馬からもらった年齢になると、ホラ吹きで高慢になり、牛の年齢に達すると支配することに通じ、犬の年齢になると怒りっぽく、口やかましくなるのである。❞
いたずらに年だけを取ることを『馬齢を重ねる』と言いますが…
馬齢を重ねただけの年配者は、果たして、敬い・崇め・称えるに値する存在なのでしょうか?
ということで、当記事では、年齢・性別・学歴といったもので人の価値を定めている現代社会に対して、より公平な新しい価値基準を提案したいと思います。
認知的不協和
すべての涙には、すべての悲しみには、意味があったのだと、だから強くなったのだと、そう思いたいんです。そう信じたいんです。
【幡田零(ゲーム『クライスタ』より)】
『働くことは素晴らしい』『テストの点数が低いことは悪いことだ』『年上には敬語を使うべきだ』…
私たちが当たり前だと信じているこの国の文化は、本当に重要で正しいものなのでしょうか?
約7万年前の狩猟採集民の時代、人間同士が如何に協力し合えるかが重要だったこの時代では、それを可能にするために人間は宗教を作りだしました。
「自分と同じものを信じている人ならば信用できる」
こうして人々は協力し合い、自分たちの行動範囲を拡大させていったのです。
こうやって『常識』は作られました。
例えば『働くことは素晴らしい』という文化を定着させられることは、支配者にとってはとても都合が良かったのでしょう。
やりたくもない厳しい労働をした後で、支配者は一言『労働は素晴らしいことだ』と私たちに伝えます。
すると、私たちの頭の中では
認知的不協和が生じます。
認知的不協和とは、思ったことに意味を後付けする現象を言います。
私たちの脳はまず『思ったこと』を扁桃体が処理し、その後で、大脳新皮質で『理由づけ』しているのです。
①『今日もいっぱい働いた』
②『自分がこんなにヘトヘトになるまで働いているんだから、きっと労働は素晴らしいものに違いない!じゃないと、つじつまが合わない!』
③『だって、働くと誰かの役に立ってるし、経済が回って...』
...という感じです。
認知的不協和を上手く利用されると、私たちはいとも簡単に洗脳されてしまうことがよくわかります。
私たちの信じている常識は、支配者が自分の都合で決めたことを、私たちが認知的不協和でいいように理由づけして解釈しただけのものなのかもしれませんね。
ペルソナ・ペインティング
もし私が自分の中を本当に深くまで眺めたら、当たり前だと思っていた統一性は見掛け倒しであることがわかり、相容れないさまざまな声が混ざり合った耳障りな雑音と化す。そのうちのどれ一つとして「私の真の自己」ではない。人間は分割不能な個人ではない。さまざまなものが集まった、分割可能な存在なのだ。
【ユヴァル・ノア・ハラリ(著書『ホモ・デウス』より)】
自分が唯一無二の特別な存在ではないとしたら、どれだけの人が、その事実を受け入れることができるでしょうか?
心理学の技法では
ペルソナ・ペインティングというものがあります。
私たちの中には多数の自己が存在していて、私たちは状況に応じてそれを切り替えているというのです。
ペルソナ・ペインティングは、自己の切り替えを制御し、状況に対し適切な自己を引き出すことで、ストレスを軽減できるという考え方です。
この思考法を考案した心理学者のカール・グスタフ・ユングはこんな言葉を遺しています。
我々は人生においてしばしば、さまざまな姿に変装した自分の分身と出会う。
人間が多数の自己を有している証拠として、紹介されることが多いのが
ピーク・エンドの法則です。
ピーク・エンドの法則とは、私たちが物事を経験した際、私たちの記憶には、経験の絶頂(ピーク)と終わり(エンド)しか残らないというものです。
これを裏付けた実験がダニエル・カーネマンの冷水実験です。
この実験では、はじめに、
①14度の冷たい水に60秒間手をつけたままにするという不快な経験をしてもらいます。
次に、
②14度の水に60秒間手をつけた後に、続けて30秒間15度の水に手をつけてもらいました。
その後すぐ、被験者たちに「もう一度同じことをしてもらうとしたら、①と②のどちらをする方がよいか?」と尋ねると、なんと被験者の80%が、①より不快な経験であるはずの②を選択したのです。
この例では、私たちの中には『経験している自己』と『思い出している自己』の少なくとも2つの自己が存在していることがわかります。
『経験している自己』にとっては、②の方が不快な思いをしているはずですが、『思い出している自己』は、ピークとエンドの不快さを平均して捉え、結果、不快感の少ない②を選択したわけです。
さらに、心理学者によれば、私たちが『今体験している』と感じられるのはたった3秒間の間だと言います。
つまり、私たちの自己は3秒ごとに切り替わっている可能性すらあるのです。
生物学者たちは、より面白い見方をしています。
私たちは、自身の行動や意思決定を自分自身で決めていると信じていますが、生物学者たちによると、人の中には無数の自己が存在し、外部から得た情報をもとに脳がその都度、自己を選択しているというのです。
こういった見解から、コンピュータ科学者たちは、大きなヘルメット型の装置(経頭蓋直流刺激装置)を被せ、脳に電気信号を送ることで、多数の自己から、狙った自己を引き出すという研究を進めています。
今のところ、集中力や注意力を高めたり、気分をポジティブにしたりといったことをはじめ、動物実験では身体をラジコンのように操作したりもできているようです。
こういった事実を踏まえても、私たち個人はそれぞれ唯一無二の特別な存在だと言えるでしょうか?
新しい価値基準の提案
現実から目を背けてはならない。たとえそれが嫌な現実であっても。むしろ、嫌な現実だからこそ現実を直視しなければならない。
【チャーリー・マンガー(天才投資家)】
ここまで、
『私たちの価値基準は、状況が変われば簡単に崩れてしまうこと。』
『私たちの常識は、自分の都合の良いように意味づけされただけのものであり、神聖なものでは決してないこと』
『私たちの自己は唯一無二の特別な存在ではなく、将来は機械のように外部から操作される可能性すらあること』
と…私たちが普段当たり前のように信じていることに対して、矛盾があることを指摘してきました。
国は人を愛国者に変えました。
宗教は人を信者に変えました。
企業は人を社畜に変えました。
いつの時代も、
支配者は弱者に答えを示し、私たちから『考える力』を奪ってきたのです。
歴史や社会は流れてはいかない。ジャンプする。断層から断層へと移り、その間に小さなゆらぎがある、そんな動きをする。…人間は自分をだますのがとてもうまい。…年とともに、人間はそんな歪みがあるという私の信念は強くなっている。
【ナシーム・ニコラス・タレブ(著書『ブラック・スワン』より)】
過去30年通用してきたあらゆる常識が崩れ始めた今、私たちは、これまでの常識を捨て『信念』と呼べる意志を持つべき時代になったのだと思います。
最後に、冒頭でふれた私が採用した『公平な新しい価値基準』を提案して終わります。
人間は、期待されて生まれ、社会を構成する一員になり、やがて無用な存在となって朽ちていきます。
従業員は、期待されて入社し、会社に貢献し、やがてオートメーション化され無用な存在となってリストラされます。
人類は、協力して発展し、人工知能を作り、やがて無用になって存在意義を失うでしょう。
少しSFチックな考えで引かれるかもですが、
私たちは皆、例外なく全員、無用になるために存在していると仮定すれば、人間は決して崇高な生き物ではなく、自分自身もまた、大した存在ではないことが理解できます。
この考え方に立てば、人よりもキラキラした人生を目指すことも、ブランド品や高級品で着飾り、自分を良く見せようとすることも、自分の立場を上げるために弱者を蹴落としたりする惨めな行為も、する必要なんてないんです!
人間も他の動物たちと同じように、自身の安心安全を確立することだけを目指して生きていく…そんな格好悪い人生もきっと、悪くはないのではないでしょうか?
まとめ
◎強者は弱者を支配するため、正しい答えを用意し、私たちから『考える脳力』を奪おうとする。『正しい答え』が簡単にわかるほど、この世界は単純にはできていない。助言をしてくる人に遭遇したときは気を付けよう。
◎私たちの中には無数の自己が存在している。彼ら(彼女ら)の経験のほとんどは、私たちの記憶には残らないが、彼らがそこに存在していたのは紛れもない事実である。記憶に残る思い出作りばかり優先するのではなく、何気ない日常も大切にしよう。
◎"有能な従業員は自分が無能になる領域まで出世する"とは『ピーターの法則』だが、これは人類全体としても言えるだろう。無限に拡大するものなど無い。人類の発展にも、いつか限界が来るだろう。
◎宗教が『神と人間』を他の生き物と分けたことで、私たちは人間を崇高な存在であると考えるようになった。ゆえに私たちは、他人と比較し、人を妬む。自分の人生のハードルを上げ、上手くいかないと凹む。
◎人を神聖視しないことで、私たちの思考は柔軟になり、幸福感が増加する。しかし、人の神聖視をやめても、社交の場では、これまでと同じように、人を敬い、崇め、称えることを続けよう。礼儀正しさこそが、究極の生存戦略であるからだ。
参考書籍
Think clearly 最新の学術研究から導いた、よりよい人生を送るための思考法
文庫 生き物の死にざま はかない命の物語 (草思社文庫 い 5-3)
イソップ寓話の経済倫理学 人間と集団をめぐる思考のヒント (PHP文庫)